視えぬものこそ。大切なことも、危険なことも、実は目に見えない話

さとり系

「本当に大切なものは目に見えない」――これは「星の王子さま」で有名な言葉だ。そして、「本当に危険なものは見えない」――目に見えない脅威の存在を暴いたのが、「沈黙の春」だ。

Sponsored Link



「星の王子さま」といえば、漫☆画太郎先生の「星の王子さま」のクレイジーな解釈がおもしろすぎて捧腹絶倒したことが記憶に新しいです。

よく、本を読む真髄は「その行間を読む」ことにあると国語では教えられてきました。サンテクジュペリの「星の王子さま」こそ、「行間を読み取る」を実践するにふさわしい良書と言えます。
そして、その行間にはらむ危うさを形にしたのが、漫画太郎先生の「星の王子さま」というわけです。

なぜなら、「星の王子さま」を一度読んだことがある人は分かると思いますが、はっきり言って、
王子の行動・言動が突拍子もなく、意味不明で、突然窮地に陥って混乱する・・・
ハチャメチャな作品ですよ、初読の感想は。

行間の話しに戻しましょう。

行間は、文字と文字、文と文の間に隠された、「解釈の余地」だと考えられます。
行間は隠されていると言いますか、敢えて書かれていない部分なので、はっきりと視認することはできません。

「木を見て森を見る」ことで、その行間に隠されたものが浮かび上がってくる、または、ふっと頭に降りてくることが多いという説明が分かりやすいかもしれません。

「行間を読む」って分かりにくいと思ったら、
「いや、そうは言うけども、とツッコミを入れる」とか「その後を妄想する」とか
そういことを考えてもらえると腑に落ちると思います。

以上、「行間は執筆者が残した読者への”余地”な話」でした。

 

 

つながりは目に見えない話

「人はヒトとヒトとの中に存在してつながりを持って初めて人間となる」
参照元:
https://entertainmentstation.jp/223681

「ニンゲンとはヒトのつながりの中に在る」

これは、「ダーリン・イン・ザ・フランキス」(以下、ダリフラ)の中で暗喩されていたことである。
ダリフラのゼロツー(Code:002)は、ニンゲンではない。外見と、管理官ナナの「彼女は特別な雌式」ということから、ゼロツーを「彼女」と呼ぶべきであろう。

幼少期の彼女は、ニンゲンと呼ぶには、あまりにもかけ離れた存在であった。なぜなら、彼女は、頭に赤い角を生やし、真っ赤な肌を持ち、まともに言葉を話すことができなかったからである。そして、彼女から流れた血は、青かった。

彼女は、幼少期に出会った少年(のちのヒロ、Code:016)に強く惹かれ、彼と同じ、ニンゲンになりたいと強く願うようになる。

時を経て、フランクスに搭乗することができず、生きる意味を見出せずにいたヒロの前に彼女は現れた。
「ボクのダーリンにならない?」
とそう手を差し伸べたゼロツーと名乗る少女は、その昔、ヒロに手を引かれ、ミストルティンを脱走した当時と風貌が異なっていた。

まるで、ニンゲンのように、肌は白く、赤い角はカチューシャでカモフラージュし、流暢に言葉を話すようになっていた。そして、流れる血は赤く・・・。

それでも、彼女はニンゲンとは認められなかった。
なぜなら、周囲を顧みず、己の願いのままに傍若無人に振る舞っていたからである。

そして、彼女を一番苦しめたことは、自分が人間ではないということを、彼女自身が一番よく分かっていったことである。だからこそもどかしく、暴走し、彼女はますます孤立していってしまう。
ダーリンと呼ぶ、ヒロと同じニンゲンになろうと形にこだわるあまり、ヒトからも遠ざかっていくのである。

ヒロを利用し、ニンゲンを蹴散らし、自分の願いのために生きる。
ヒロと思いを共有し、仲間を思いやり、自分の願いを叶える他の道を模索する。

どちらがより「ニンゲン」と捉えられるだろうか。

ニンゲンとは、ヒトとヒトとのつながりの中に生きる生き物である。
しかし、ゼロツーとヒロの関係を見ていると、そのつながりは、可視化できるものではないが、大切なものであることは、本作品の隠されたメッセージと考えることができるのでる。

 

Sponsored Link



 

目に見えない脅威の話

ウィルス、
と言っても、バイオハザードのバイオテロの世界ではない。もはや、サイバー攻撃の時代なのである。
なぜなら、現代社会が高度に情報化したためである。あまりにも、IT化が急激に高度に発達し先行するあまり、多くの抜け穴やすき間が空いてしまったのも事実である。

時にインターネット上の攻撃が巧妙なのではなく、被害者の方が急激なIT化の変化に置いて行かれてしまった結果、太刀打ちできなくなったのではないかとも考えられる昨今である。
上記と同様に、変化について行けない人と先を行く人との間に差が開きすぎてしまうことも、急成長が生み出した欠陥であると言えよう。

様々な技術や思想が高度化し、複雑多様化していく今日の社会では、選択に疲れ、考えることを放棄した人々が安直な方へ、楽な方へと走ってしまう傾向が目に見えて取れる。

というのも、人間は意識しなければ、その場の流れに身を任せて、ただ流れていくだけになってしまうのである。たとえば、討論が交わされるはずの会議で意見がゼロのまま案件が通ったり、ハイハイとYesの安売りで後で「「うん」って言ったよね」と身に覚えのないことが後で降りかかってきたりすることが挙げられる。

ここに、少なくともその当時は「自分とは関係性の薄いもの」というバイアスが無意識下で働き、情報の選り分けが勝手に行われてしまっているのである。自分が意図的に、取捨選択の勝手な選り分けシステムを止めないと、「無意識下」で事態は進んでしまうのである。

意識のうちにないもの、意識していないものは、知りようがない。
今、画面に集中しているあなたは、背後に蚊が忍び寄っていることに気づかないかもしれなし、知らぬ間に目が疲れ、首が凝り、肩の筋肉が緊張状態になっていることにも気が付かないかもしれない。

目に見えない脅威は、意識をしないと捉えることができない。言い換えれば、意識をしなければ、潜む危険を見つけることはできないということである。

 

 

【実話】人間本位に振る舞いと思考することを捨てた結果

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は、人間が化学薬品―殺虫剤や農薬を濫用し、自然とそこに生きる他の生物を破滅に追いやった事実が克明に描かれている。濫用とは、無分別にやたらめったら使いまくることである。

作物を育てるために、邪魔な生物を排除し、安定した生産を実現するために、農薬というダークホースに手を出す。これが、「誠意あるものの振る舞いだろうか」と彼女は嘆いている。

正確に言うはこうだ。人間は思考することを捨てたのではない。より安易な方へ流れただけである。散布した化学薬品のその後の姿をもう目で追うことなど叶わない。その撒かれたがどこへ行って、どのように作用するかは、到底知ることはできなくなる。
まさに、バイオテロであり、これが、目に見えぬ脅威である。

 

 

ストレスが可視化できない話

ストレスとは負荷のことである。
プレッシャー(圧)と同じような意味で使われるが、今日、どちらも良い意味では使われていないのが現状である。
なぜなら、現代が超ストレス社会だからである。プレッシャーが強すぎて、忖度・斟酌せざるを得ない状況が跋扈している。もはや日常的にありとあらゆるものにストレスフルに囲まれ、自分が過度なストレス下にあることも気づかない状況に追い込まれている人も多く存在している。

負荷が耐用量を越え、心身症状が現れたときに初めて、ストレスのせいか、あのプレッシャーのせいかと考えるのである。

ストレスも目で見て確認することが難しい脅威の一つである。

人間の脳は高度である。だから、その高度な脳を駆使して、考えよ、人間。目に見えないものは、意識して考えなければあぶり出せないのだから。

Sponsored Link



コメント